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日本の高レベル放射性廃棄物のゆくえを追う

【ルポ】辺野古:阻止行動の歴史と現在





沖縄中北部、名護市の東部に位置する、とにかく青い海が広がる「辺野古」
そばやもずくが本当に美味しい所だ。

大きな自然に囲まれ、元気一杯の海人が漁に出たり、
働き者の人が本当に多く、
溢れんばかりの活力にただただ圧倒されるだけだった。


そんな魅力一杯の辺野古に暗い影を落とす沢山の米軍基地。
政府の基地への執着は収まることを知らない。


基地に対する反対運動というのは小規模でも随分昔からあったことはあったという。
辺野古に関して云えば、もう10年前に遡る。


ただ、沖縄で反対運動が一気に盛り上がるきっかけとなったのは1995年に起きた米兵による少女暴行事件。

それまでも米兵によるレイプは多々あったけれど、表沙汰にならなかったのは証言することを女性たちが拒んでいたからだった。


敗戦後、日本がアメリカに沖縄内で日本軍基地だった所を米軍基地にすることを許してから、沖縄ではそういった事件は絶えなかったが、この少女に対する暴行事件は市民の怒りを爆発させたという。

それは恐らく少女であったがゆえに、親たちはそれまで他人事にしていても「自分の娘がそんな目に遭ったら…」と自分の子供と重ねて捉えずには居られない、そんな事件だったからだろうと辺野古の人は話す。



沖縄県の辺野古は、今や米軍新基地建設で知られる所で、最近では辺野古より40分~1時間北上した所にある東村の高江という場所がヘリパッド建設で知られるようになった。

沖縄と云えば米軍基地を連想させる所だし、基地推進の住民も居ることは確かだが、反対の住民の方が圧倒的に多いにも関わらず、国は更にうまく騙してとにかく基地を増やそうという。



「騙して」というのには以下のような簡単なカラクリがある。



暴行事件を受けて8万5千人以上の住民たちが駆けつけた「県民総決起大会」が1995年10月21日に行われた。日米両政府は住民の怒りを鎮めようと当時の首相、橋本元首相とアメリカ駐日大使が会談し、1996年4月12日午後8時、「(普天間基地)無条件返還」を発表した。しかしわずか其の3日後、「移転」と発表した。其の時点では未だ移転先は発表されていなかったが、同年12月2日、移転先が「辺野古」と発表された。

つまり、普天間から基地を無くす代わりに辺野古に「移す」というのだ。一般的にこれは「普天間代替基地」といわれるようになったが、辺野古沖海上基地建設(沖合案)の実態は、「(普天間にある基地を在るまま、其の通りに)移す」というものでもなく「代替」などというものではなく、移転と見せかけた拡張だった。



沖合案



政府の目論みはもともと返還などという考えは微塵もなく、今も昔も増やすことしか頭にない。辺野古の人がわたしにこの話をする時はよく「反対運動を利用した」という人が多かった。



1997年1月27日、辺野古の人たちによる「命を守る会」が結成された。



これが今の阻止行動の母体となると云って全く過言ではないと今現在も行動に参加する人たちは口を揃えていう程、物凄いものだった。というのも、この時のおじい、おばあが始めた座り込みは、海上基地建設が辺野古にされるという以外に情報を持っておらず、いつ、何が、どのようにされるのか全く検討もつかないものに対してただただじっと監視するものだったからだ。結果的に以後8年毎日続いた座り込みだったが、2003年7月から基地建設の事前調査を強行的に行う以前までの6年半という月日をおじい、おばあたちは見通しもつかないがゆえにただただ割き続けたことになる。だからこそ今行動をしている人たちにとってその存在がとてつもなく大きいのだろう。



2003年4月8日、いよいよ日本政府は基地建設のための事前調査に強行的に乗り出した。その日は朝6名の住民が集まったが、調査を止めることが出来なかった。それでも今後行われるであろう工事を止めるべく、辺野古の浜で何をどうすべきか話し合うようになった。話し合いの他に、カヌーの練習なども始めた。当時皆かなづちだったということを聞いて驚いた。今の皆のたくましい姿からはむしろ想像もつかないが、彼らからすれば今こんな風に海で泳いでることや、顔を浸けていることが信じられないそうだというのだから、彼らの強い想いを感じずにはいられない。



2004年4月19日、那覇防衛施設局は作業に取りかかるべく辺野古漁港に来たが、集まった人たちによって押し返された。これが今のいわゆる完全非暴力による座り込み阻止行動の幕開けとなった。

その後何の前触れも無く施設局は辺野古へ来たが毎回長時間の話し合いをして、こういった状況が32回も続いたが結局施設局が住民を納得させることは無論出来ず、座り込みによって全て追い返した。



そんな最中起こった普天間基地の米軍ヘリ沖縄国際大学に墜落事故発生。同年8月13日。



この事件も政府はうまく利用した。

こんな危険な普天間基地は早く辺野古に移設する、と煽った。更なる不条理で辺野古新基地建設を急がせる要因かのようにして進めた。



事件から半月後の9月9日、施設局は基地建設強行を発表し、それに対し日本全国から大勢の人たちが阻止するために集まった。しかしながら、施設局は彼らの前を通るのではなく、隣接に在る米軍基地キャンプシュワブから出航、作業を強行的に始めた。カヌー隊が出るようになったのもこれからのことだ。



必死の阻止行動も施設局の暴力的な建設作業によって、海に鉄パイプが徐々に組まれる作業が強行的にされ、同年11月、4つの単管やぐらを建てられてしまったが、人々は諦めなかった。それからというもの人々は作業船より先にそのやぐらに毎日、2005年からは4月からは毎晩座り込み、海上阻止行動が起こり、作業を中止させた。1週間のつもりで設置されたやぐらは556日(9ヶ月)の月日を経て、撤去され、住民、又各地からの人々によるやぐら座り込みが勝利した。2005年9月2日のことだった。



勝利の喜びも束の間―



2005年10月29日、日米両政府は米軍再編で、大浦湾からキャンプシュワブ南の沿岸部に及ぶ「沿岸案」を発表した。



沿岸案#2



これは沖合案以上の威力を持つ基地ではない、沖縄を軍事要塞にするものである。滑走路だけでなく、軍港まで出来る。注目すべきは、今や明るみになったものの、この案は今になって出た案ではないということ。1966年から既にアメリカは辺野古を狙っていたことが文書により明らかになった。詳しくはNo More US Bases in Okinawaを参考に見てみるといい。







今現在、国は業者を使い、法をくぐっていない事前調査を強行的に行っている。違法であることは、住民のみならず、作業員も国も知った上で行っているのだから、それがまかり通っている現状自体おかしい。しかしながら何だか分からないこじ付けをしては、開始されていて、その準備段階から住民は阻止しようとして日々、本当に日々、阻止行動しているという状況。今も辺野古では、海上で作業船で行われる業者の作業を、辺野古の人たちはカヌーを出して阻止している。いつ出るか分からない作業船を、分からないからこそ毎日目の前で見張り続け、作業船に動きがあれば絶えずいつでもカヌーを出せるように皆待機している。




この合意なき新基地建設を許してしまったら、後に戻るのは難しくなるだろう。


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